『錦城山の見どころ散策マップ』の『お勧め散策コース』順に写真を掲載(戸次丸にも寄り道)してあります。
プリントアウトした『錦城山の見どころ散策マップ』を手元において写真を見ていただければ、より雰囲気が伝わると思います。
『贋金造りの洞穴』
明治元年、明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、この洞穴の中で贋金を製造した。銀製品を溶かし弐分金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び、製造責任者市橋波江に切腹を命じた。然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(注:パトロンとは弾薬の意)』
(案内板より転記)
錦城山は、江戸時代お止め山として入山が厳しく禁止されていたため手入れがされず、今でも山全体に木々が生い茂り眺望のよい場所は少ない。
この曲輪も、2008(平成20)年までは竹が生い茂り、足を踏み入れることすら出来ないほどだった。それを、ひと夏かけて竹を伐採・整備した結果、今のように明るく開けた眺望(次の写真)もよい場所になった。
正面の階段を登ったところに馬出曲輪があり、2つ前の画像を写した曲輪の一段上の場所。ここからの眺望(次の写真)もよい。この曲輪の対面所側(北側)の切岸に、石垣(次の次の画像)が一部見える。
正面の斜面の上が本丸。斜面に迫り出している建造物は、錦城山公園として整備した時の休憩所(四阿)。中央に見えるブルーシートは、発掘調査のもの。この遊歩道の左手(本丸の東下)(次の画像)と、右手奥(本丸の北下)(次の次の画像)に、曲輪がある。
本丸中程から振り返り、今上ってきた階段の方(東虎口跡)を見た様子。すぐ横にもみじの木があり、紅葉がきれい。2011(平成23)年11月から、この場所で発掘調査が行われた。
2011年度に発掘調査を行った東虎口・櫓台・北虎口について、翌年(2012年)6月3日発掘調査現地説明会が行われた。その後、埋め戻され一部はブルーシートで覆われている。
以前は竹や笹が生い茂っていたが、2016年から除去を始める。その結果、曲輪全体の様子がわかるようになり、北側の畑山などが見えるようになった。この曲輪の周りに、幾つもの腰曲輪を確認できる。
局谷(つぼねだに)。本丸と鐘が丸との間にあり、自然の谷を人工的に堀割って作られた横堀の一部。名前の由来は、1600(慶長5)年、大聖寺城落城の際、局(つぼね)たちが本丸から身を投げて亡くなったからといわれ、局たちの霊がかんざしを挿した蛇となり現れるといわれた。
北側の入り口から見た鐘が丸。大聖寺城で最も広い曲輪。右手が曲輪の西側で、土塁が築かれている。土塁のさらに右側は、骨ガ谷を挟んで、津葉城があった荻生山。写真奥に見えるものは、錦城山公園として整備されたときに設置された遊具。
下馬屋敷跡から、見た遊歩道。中央に見える階段は、本丸への道。上の番所屋敷跡の写真に写っていた階段の下のあたり。その道の右側に、『く』の字型の道跡がある。これが本来の道で、階段は公園整備時に曲輪を分断して設置された。
右側中央の明るい場所は曲輪の南東の角で、大聖寺の町並みや加賀三山(大日山・富士写ヶ岳・鞍掛山)など南加賀の山々が見える。また、遠くには白山も望める。大聖寺出身の登山作家、深田久弥の『日本百名山』発刊50周年を記念する石碑(次の写真)がある。
2014(平成26)年7月20日に、深田久弥の著書『日本百名山』発刊50周年を記念する式典がここ東丸でおこなわれた。式典には、来賓として深田久弥のお二人の御子息が出席された。